「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509

野党への支持率が絶望的に低い。特に若者世代ではその傾向が顕著だ。そうした「野党ぎらい」の背景には、若者世代がコミュ力を重視している事実があるのではないか。コミュ力を大切にし、波風の立たない関係を優先していれば、当然、野党の行う批判対立を作り出す姿勢は、嫌悪の対象となる。摩擦のない優しい関係が社会に広がるなか、野党の置かれた立場は難しいものになっている。

ぜんぜん違う。
的外れもいいところ。
コミュ力」なんかどうでもいい。
若者のいう「コミュ力」とは、官僚になれば「忖度」といわれるものになるのであって、所詮は安倍の権力にからめとられる「力」に過ぎない。
コミュ力」というふうに一種の力を装っているが、安倍の権力を前にしたら何の力も発揮しない、風になびく柳みたいなものだろう。
そんな頼りない「コミュ力」をキーワードにして政治を論じても、まったく力にならない。
野党が政府を批判するのは仕事だから当然だが、むしろアベの方がよっぽど対立を作りだしているし、アベのやる事は摩擦を生じさせて闘うポーズだけはとるし、アベのいう事は批判にすらならない誹謗中傷ばかりだ。
アベと北朝鮮、アベと朝日新聞、アベと野党、アベと女性議員、こうしたアベの関係をみれば、アベが首相のくせに国民の代表面することなく対立ばかり作り上げて口先だけのハッタリで政権を維持してきたと分かるはずだ。
すべての若者がアベこそ「嫌悪の対象」になるべきところ、どうやら若者世代ではアベを支持しているらしいが、そんな若者の「コミュ力」なんてものは、悪い大人の「忖度」の別名なのであって、佐川を許してはならないのだ。

「野党がだらしないからだ」。こう言う人がたくさんいる。たしかにそうかもしれない。しかし、「だらしなさ」加減があまりにひどいので、「野党ぎらい」が高まっている、という説明だけでは、この不信の底の深さは理解できないように思える。
このエッセーでは、既存の「野党」だけに一方的に責任を負わせるのではない仕方で、「野党がきらい」という雰囲気について考えてみたい。

野党がだらしないのではなく、国民がだらしないのだ。
とくにアベを支持する奴は、頭が悪すぎる。
モリカケ事件の事実を認識できてないという点においてアベ支持者は頭が悪いし、仮にモリカケ事件の事実を認識できたうえでもアベ支持なら、性格が悪い。
頭が悪いか性格が悪いアベ支持者が、国民のなかに2000万人ぐらいいるのだから、こんなだらしがない奴らがいたら、国がおかしくなるのは当然だ。
アベが責任をとらないのであれば、アベ支持者に責任をとらせるべき。

学校でも職場でも、ナチュラルに感じよく会話ができれば、ものごとは円滑に進む。社会の流動性が激しくなり、かつてのようにずっと同じ職場で、同じメンバーと仕事をすることが当たり前でなくなれば、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作り、その場の「空気」をうまく読み、それを継続するコミュ力がその分だけ評価されるのも当然ではある。

若者の「コミュ力」は、微笑ましいものだろう。
だが官僚になって、それが「忖度」へと変貌した時、おそろしい犯罪を生む。
アベとフレンドリーな関係にあったお友達のために、国有地はタダ売りするわ規制は曲げるわ、ものごとが円滑に進んでしまったのだから、「コミュ力」がやがて国家による巨大な権力犯罪へと発展したのだった。

抵抗」の思想家を毛嫌いする
コミュ力」信仰が「野党ぎらい」を助長する――これまで述べてきた仮説を肌身で感じることがある。
私の担当科目「現代政治理論」で扱ったテーマのなかで、今年ダントツで評判が悪かったのが、藤田省三だった。丸山眞男のもとで学び、高度経済成長による日本社会の変容と批判的に対峙した思想家である。
講義では「離脱の精神――戦後精神の一断章」(1978年、『精神史的考察』所収)を紹介したが、「抵抗」なきデモクラシーは「翼賛」になりかねない、と主張する藤田に、共鳴する学生はほとんどいなかった。
最後に学生に書いてもらったオピニオン・シートには、藤田に対する違和感と嫌悪の言葉が並んでいた。「たんなる老害」というコメントすらあった。
「公的なもの」の喪失を危惧するハンナ・アーレントの評判は決して悪くない。しかし、彼女とともに「全体主義」について考え、経済的な豊かさという「安楽」にすら「隷従状態」を見た思想家は、いまどき受け入れがたいらしい。

藤田省三の評判が悪かったということは、学生が藤田省三を理解している証拠だ。
藤田は、バブル絶頂期の日本社会を厳しく批判し、経済的に搾取されてきた第三世界が日本を包囲する未来を夢想した。
学生が藤田の迫力ある思想を嫌うのは、自分たちが批判されていると気づいたからだろう。

この「感じのよさ」の基準からすれば、法案に反対してプラカードを掲げる野党議員や、暑い夏の日に、タオルを巻いて座り込みを続ける人たちの評価はどうしてもよいものにはならない。
こだわり」を持つことも、「情念」を出すことも禁じられれば、対抗する側(「野党」は英語ではoppositionである)はその分ますます無力になる。おかしいと思う問題に「こだわり」続ければ、「まだやっているのか」と言われ、不正義に憤って大きな声を出せば、「冷静な議論ができない」と言われ、党内で論争しただけで「内ゲバ」と言われる。

浅い。
ぜんぜんダメ。
よくある野党叩きの域を出ない。
野党よりもアベの方が、よっぽど気持ちの悪い「こだわり」を持ちつつ薄暗い情念を隠して改憲へと暴走しているのが見えないのだろうか。
どれだけアベが危険人物であるのかということを、オウムの麻原と並べたら一発で理解できるはずだが、どうしてアベの危険性が周知徹底されないのか不思議でならない。