尾崎秀実 遺書

 私が妻子に只一つ大きな声で叫びたいことは、「一切の過去を忘れよ」「過去を棄てよ」ということです。私が昔からそれとなく云いつたえ、ことに過去二年九カ月にわたって何とかして分からせたいと考えて云ったり書いたりしたことはただそれだけだったのです。お金がもはや頼りにならないことは事実が否応なしに教えた筈です。物と雖もやがて同様です。結局それは過去の残骸です。否そればかりでなく、過去の記憶にすら捉われてはならない時です。一切を棄て切って勇ましく奮い立つもののみ将来に向って生き得るのだということをほんとに腹から知ってもらいたいというのです。

だが私には迫り来る時代の姿があまりにもはっきり見えているので、どうしても自分や家庭のことに特別な考慮を払う余裕が無かったのです。というよりもそんなことを考えたとて無駄だ、一途に時代に身を挺して生き抜くことのうちに自分もまた家族たちも大きく生かされることもあろうと真実考えたのでありました。

私の最後の言葉をも一度繰り返したい。「大きく眼を開いてこの時代を見よ」と。真に時代を洞見するならば、もはや人を羨む必要もなく、また我が家の不幸を嘆くにも当らないであろう。時代を見、時代の理解に徹して行ってくれることは、私の心に最も近づいてくれる所以ゆえんなのだ、これこそは私に対する最大の供養であると、どうぞお伝え下さい。