れいわ新選組と山本太郎氏論・ポピュリズムとリアリズムの狭間で

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2019年の参院選が終わった。
大きなニュースのない選挙の中、れいわ新選組が2議席を獲得したことが話題を呼んだ。

本稿では、山本太郎氏の6年間の議会活動を振り返るとともに、一体れいわ新選組、あるいは山本太郎氏が何を目指しているのかを考えたい

アホか。

こんな酷い駄文は初めて読んだ。

山本を批判的に見るのは結構だが、ぜんぜん批判できていない。

これじゃ都合のいい所だけをつまみ食いする歴史修正主義ならぬ、山本修正主義だ。

山本を批判する場合、山本のごく一部の言葉尻や行動をとらえても、山本を倒すことはできない。

山本にも、ごく一部とはいえ批判部分があるとすれば、山本の全体を見たうえで批判部分を位置付けなければ、しょせんは小手先だけの批判に留まる。

山本への批判があるとすれば、私でも聞きたいくらいだが、山本を批判する連中に限って、まるでネトウヨのように事実をつまみ食いして、全体を把握する知性が欠如している。

例えば、「新党ひとりひとり」時代には、このように発言している。

安倍総理は、消費税を引き上げて税負担を求めていく以上、政治家も身を切る決意を示さなければならないということから国会議員の歳費二割削減も決まっていったというような趣旨のことをおっしゃっていますよね。平成十九年四月二十四日、第一次安倍内閣閣議決定された「公務員制度改革について」という文書には、「公務員は、まず、国民と国家の繁栄のために、高い気概、使命感及び倫理観を持った、国民から信頼される人物である必要がある」と書いてあります。

 稲田大臣、私、国会議員の歳費二割削減と同時に、国会議員と同等の給与を受けている幹部職員の給与二割削減、実現するべきじゃないのかなと思うんですけれども、大臣の御見解、お聞かせ願えますか。”(平成26年4月11日 参議院内閣委員会)

 ここではむしろ維新の会のような、身を切る改革を主張されている、とも読める

 ぜんぜん違う。

一見したところ山本の発言が、国会改革に触れているため、維新風の「身を切る改革」のように見える。

だがそれは、形式だけ見て中身を見ていない指摘だろう。

山本の根底にある問題意識は、維新のような薄汚い連中とは、まったく違う。

山本と維新がどれだけ違うか、少しでも頭があれば理解できるはずだ。

私は、いくらでも山本と維新の違いを指摘できるが、ここでは書いてやらない。

一方、生活の党時代になると、このように主張は変わる

”消費税をPDCAで評価した場合、私は、一旦消費税を五%に戻して、先々は廃止していく、財源は所得税の累進性を強めて資産課税を強化していくということで賄えると考えます。中小企業・小規模事業者の現状に大変お詳しい先生に、消費税を一旦五%に戻すというプラン、御意見を伺いたいと思います”(平成27年03月23日 参議院行政監視委員会

 実は、山本太郎氏の政治団体、「新党ひとりひとり」では、当初このような基本政策が書かれていた(2019年現在、この内容はれいわ新選組の基本政策に合わせたものとなっている)。

”裕福な者も貧しい者も同じ税率? あり得ません。反対!だけでは呪文と同じ。まずは生活必需品非課税を勝ちとります。”(参照:基本政策 | 新党 ひとりひとり)

 この文言を見ても、必ずしも山本太郎氏の消費税に対する観点は、固まっていたとは言えないだろう

 そして、生活の党時代から少しずつ、メインテーマをシフトしてきたのだ。

 それは、時代の空気を感じる山本氏の優れた能力によるものではないだろうか。

 山本太郎氏は当初反原発運動家として政治キャリアをスタートし、少しずつその政策を、消費税などの経済政策にシフトさせてきた、とわかる。

酷い。

日本語がおかしい。

山本は、主張が変わったわけでもないし、「観点は、固まっていたとは言えない」わけではないし、「メインテーマをシフトしてきた」わけではない。

山本にとって、反原発も消費税も、常にメインテーマである。

シフトしたわけではなく、山本のメインテーマが膨らみ、山本という男がより大きくなって我々の前に現れたと見るべきだ。

脳みその容積が一定であれば、反原発→消費税へとシフトしたといえるかもしれない。

だが山本ほどの男であれば、メインテーマの容量を増やして、反原発+消費税+αへと、より大きくパワーアップしたというべきだろう。

そのへんの脳みそがスカスカの下らない男と、山本を一緒にするなと言いたい。

このような点を含め、消費税廃止が果たして左派的な政策なのか、疑問が残る。

日本共産党が忘れられている。

パッチワークの結果、れいわ新選組の政策は実現性が低いもの、あるいは財源論を意図的に省いたものになったと評価せざるを得ない。
支持者の方々も含め、このような点から目をそらしてはいけないのではないか。

嘘だ。

山本ほど財源をしつこく語る政治家はいない。

山本の演説を一度でも聞けば、財源が何か分かる。

山本の主張から目をそらしているくせして、支持者に「目をそらしてはいけないのではないか」とハッタリをかますのは悪質だ。

インフレになるまでは国債で財政の大部分を賄うということは、インフレになった場合、様々な社会サービスが削られ、大規模な増税が来るということである(インフレが絶対にこないと考えているなら別だが、論理的にはシンプルだ)。
そのような社会システムに、我々は信頼を置けるのだろうか。私は疑問である。

インフレでもないのに早くも社会保障を削っているアベ政権に文句を言うべきであろう。

将来のインフレによる増税を心配する前に、いま、アベによる消費増税と社会サービスの削減をどうするつもりなのか。

将来へのツケを心配するくせして、いま、生きている貧乏人にツケをまわすことには無頓着な改革政党のペテンのごとし。

国債本来、将来産業への投資などに、景気刺激策とイノベーション施策として使うべきで、安定して財源を必要とする社会保障の分野で使うことは不適切ではないのだろうか。

これこそ実現不可能なキレイ事だ。

イノベーションは、起こそうとしても起こらないし、トップの連中が腐っているから成長産業が何一つとしてないし、将来産業ではなく崩壊産業にばかりカネを突っ込んで、中台企業に身売りしてきた。

イノベーションは、カネを突っ込んでも意図的には起こらないし、わけのわからんイノベーションを雨乞いしている場合ではなく、死にゆく人たちを救う社会保障にカネを突っ込まなければいけない。

支持者個人がその政策をどう捉えるかではなく、支持者が「どの政策なら勝てるのか」を基準に政策を考えるようになるのだ。
「野党は消費税減税でまとまれば選挙に勝てるのに、なぜやらないのか」というような言説は、このような思考をもとにして発せられる言葉ではないか。
 私は、れいわ新選組の支持層には「選挙に勝てるような政策を打ち出している党を支持する」という層が一定程度存在すると見ている。
「この政策なら野党は勝てる」と考え、そこに高揚感を感じる人たちもいるのだろう。
 しかし、そのような思考のもと選挙に勝った野党がその後なぜ政権を維持できなかったか、を考えると、このような思考はやはり、政策をもとに政党を選ぶという有権者のあり方とは大きくかけ離れたものではないか。

ゲスの勘繰りだ。

消費税で殺される庶民の暮らしが、まったく視野に入っていない。

選挙に勝てなければ増税をとめる力になれないのに、選挙に勝てる政策を打ち出せない野党であれば、もはや野党に安住した55年体制への逆戻りだ。

野党が政権を獲得しても維持できなかったのは、政策の裏切りと、旧民主党の汚らわしい豚が原因である。

なのに旧民主党の死すべき残党が、なんら反省していない。

同時に、山本太郎氏は、建前ではなく本音の人だ。
「政権を取るためならなんでもする」「総理になりたい」これは本音だろう。
 同時に、「あなたを幸せにしたいんだ」というキャッチコピーに現れるように、弱者に向ける目も(いささかパターナリスティックな側面もあるとはいえ)本音なのだと思う。

日本語がおかしい。

弱者に向ける眼差しが、「パターナリスティック」などと冷酷にとらえるのであれば、政治を語るべきではない。

この程度の事で「パターナリスティック」になるのなら、日本が不寛容な社会になって、弱者に冷たい国だという評価を正しく思えてくる。

山本を批判するリベラルっぽい連中が、どうも「ネトウヨ堕ち」「冷笑ポモ化」しているのではないかと心配になってくる。

しかし、その時本音であったことが、一年後本音とは限らない。興味関心は移り変わるのである。本音の人ということは、反一貫性の人ということでもある。
 感情的な本音と手段の選ばなさ、これが現代的政治のリアリズムであり、れいわ新選組を押し上げたのではないか(私はこの点、大阪における維新の会の政治運動と共通するものを感じている)。

ぜんぜん分かっていない。

表面だけ論っても無駄だ。

山本の発言を「本音」とし、その一年後の「本音」に差異があった場合でも、「反一貫性」とはならない。

山本の発言の「本音」にあらわれた部分だけを見るのではなく、その根底にある土台から見れば、山本が常に一貫していることは明らかだ。

形式だけをとらえるのではなく中身を把握することが大切であり、一部だけをとらえるのではなく全体をとらえなければ、トンチンカンな話にある。

山本を批判するのは結構だが、山本を批判するためには、山本本人ですら知りえなかったほど山本を深く洞察せねばならない。

私だって山本批判を聞きたいぐらいなのに、手を抜いた駄文ばかりで退屈だ。

しかし、リアリズム観点から読み解けるものが多くとも、山本太郎氏がどのような社会を目指すのか、何を理想とするのかは、実はよく見えてこない

 選挙に勝てる統一の主張として消費税廃止を主張しているのか、本当に心の底から消費税廃止により偶然の好景気が訪れ日本の諸問題が解決すると信じているのか、見えないのだ。

 山本太郎氏だけではない。れいわ新選組は一体何を実現し、どのような国家を目指す政党なのか。これに簡潔に答えられる人はどの程度いるだろう。

簡潔に答えられないのは、バカだからだ。

れいわ新選組の主張を理解できた人は、参院選で200万人いた。

山本の主張は、超わかりやすいし、露骨なまでに簡潔だ。

しかも山本の演説は、繰り返し同じこと語ることによって、山本の演説を聞いた人が、まわりの人に伝えやすく配慮してある。

これほど分かりやすく、熱を帯びた声で、愛をこめて演説をしている山本の動画が、ネットで山ほどみつかるのに、それでも山本の目指す理想が「見えない」のであれば、それは単なるバカだ。

山本氏は、あえて言うなら「反一貫性の政治家」である。その場で最適と思ったことを発言する。そこに過去も未来もない
それを有権者も支持する。なぜなら常に「本気で戦っている」からだ。
つまり、発言の一貫性ではなく、姿勢の一貫性を見ているのである。妥協しない(と見えていること)に彼の支持の源泉があるのではないか。

山本をバカにしすぎだ。

山本を見たうえで批判しているとは思えない。

山本から逃げているから、山本の「過去も未来も」見ないでテキトーに論評できるのだろう。

山本は、発言も姿勢も常に一貫している。

「本気で戦っている」と指摘できるのであれば、なぜその中身を見ないのか。

山本の主張の中身を見たら、発言が一貫していることは、アホでも分かる。

山本から逃げず、山本をジッと凝視し、山本の演説を繰り返し聞けば、山本ほど信頼できる政治家はいないと断言できる。

山本を批判する連中に限って、山本から逃げている。

山本から逃げるな、と私は言いたい。

しかも山本を批判する連中のせいで、山本は、まだ「本気で戦っている」とはいえない、と私は思う。

山本なら、もっと凄まじい本気を発揮できるはずだが、山本への批判勢力に配慮して、少し手加減している素振りが、演説動画を見ればうかがえる。

山本がこれから本気で戦いだした時、この国は変わってゆくだろう。