「みんなが差別を批判できる時代」に私が抱いている危機感(綿野恵太)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57840

「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」という有名な言葉がある。
差別は差別された者にしかわからない、という意味である。たしかに、いくら想像力を働かせたとしても、踏まれた痛みは直接体験できない。また、差別は差別された者だけが批判できる、という意味でもある。もしかしたら、私も気づかぬうちに足を踏んでいるかもしれないからだ。
しかし、杉田水脈LGBT生産性発言、「新潮45」休刊騒動では、当事者である性的マイノリティだけではなく、多くのひとびとが批判の声をあげた。みんなが差別を批判できる時代。一見、それは望ましい社会であるようだが、危機感を抱いている

全然ダメ。
「みんなが差別を批判できる時代」に危機感を覚えるのは、バカげた話だ。
真に危機的なのは、みんながたやすく差別できる時代の到来のことである。
ネットで匿名性に隠れて差別言語を巻き散らかし、歴史のある出版社が差別的雑誌を発売し、落ち目のテレビ局が差別的番組を報道してしまう、みんなが気軽に差別できてしまう現代日本こそ、危機感を覚えるべきであろう。
みんなが堂々と差別できる時代に危機感を覚えずして、「みんなが差別を批判できる時代」に危機感を覚えるのは、先回りしすぎている。
そもそも「みんなが差別を批判できる時代」とは、みんなが差別する時代がなければ、やってこない話だ。
差別時代があった後で、差別批判時代が来る以上、「みんなが差別を批判できる時代」に危機感を覚える前に、みんなが差別する現代日本を批判的にとらえなければ、おかしくなる。
私見では、「みんなが差別を批判できる時代」など来たためしがない、と断言できる。

しかし、一方で炎上ネタとして消費されたことは否定できない。まるで芸能人のスキャンダルと同じレベルで、差別やパワハラといった問題が扱われているのだ。
差別やパワハラがいけないことだ、という考えが世の中に浸透した結果でもある。だが、そうであればこそ、そう簡単に片付けられないはずである。しかし、次から次へと悪者が告発され、どんどんと忘れ去られていっている。
そして、最大の問題点は、どんな社会的制裁を加えるか、という点ばかりに注目が集まっていることだ。

だから「みんなが差別を批判できる時代」など、まだやってきていないのだ。
なぜなら差別を批判するためには、ものすごく勉強しなければいけないからだ。
この私ですら、勉強が追い付かなくて差別を批判できていないのに、「みんなが差別を批判できる時代」とは、いったいどこの国の、どの時代のことなのか、さっぱり分からない。
当事者でもないのに差別を批判しようと思ったら、一から勉強せねばならず、私ほど勉強してきた人間ですらも、ほんの少しだけ嗜み程度に勉強したぐらいで、あらゆる差別を批判できず、自分の力不足を痛感している。

今回の騒動でも、性的マイノリティの当事者よりも周囲の人間の声のほうがあきらかに大きい。もしかしたら、私も足を踏んでいるかもしれない。この問いかけがなくなったのが、この炎上騒動の原因だと考えている。

酷い。
ピントはずれもいいところ。
足を踏まれた者でない限り、「炎上騒動」に関与することはないのだから、足を踏まれた者が、足を踏まれたと同時に「足を踏んでいるかもしれない」と自分に問いかけるのは、そんな賢者はギリシアの哲人くらいだろう。
足を踏まれた者が、「私も足を踏んでいるかもしれない」と自分に問いかけるのは、ヒマになってからでよい。
「足を踏んでいるかもしれない」という問いかけよりも、足を踏まれた者であることの強い自覚がない限り、「みんなが差別を批判できる時代」はやってこないのだから。

くわえて重要なのは、在特会、ネオナチ、KKKといった排外主義もまたアイデンティティ・ポリティクスであるということだ。
「逆差別」という言葉が象徴するように、マジョリティであるわたしたちが逆にマイノリティに虐げられていると主張する。その主張がいかに間違っているとしても、形式面においてはアイデンティティ・ポリティクスと同じ行為をしているのだ。
アイデンティティの尊厳をもとに考えることは、実は排外主義と同じ土俵に立ってしまう。

アホか。
排外主義の「形式面」が、アイデンティティ・ポリティクスと「同じ行為」をしていたとして、排外主義の「主張」が間違っているのであれば、決着がついた話だ。
形式で似ていても内容が間違っている以上、排外主義とアイデンティティ・ポリティクスはまったく別物だということが、分からないのだろうか。
それでも「実は排外主義と同じ土俵に立ってしまう」と考えるのなら、アイデンティティ・ポリティクスの主張もまた、間違ったものとしてとらえない限り、同じ土俵に立ちようがない。
排外主義の主張を救い出そうとする意図がない限り、排外主義の「形式面」を抽出して、アイデンティティ・ポリティクスと同じ土俵に並べるのは、実は何もわかっていないことを白状しているに等しい。