不用の美・・・

酒を呑んで酔った時こそ、冷静に判断できる・・・

酔いから醒めた時は、すでに自分を取り戻している・・・

そうではなく、自分を見失うほど酒に酔った時ほど、正しい判断をできる事もある・・・

私は、自分の手にしたぐい呑みが、ウンコ色をして許せなくなった・・・

陶器製で、土の上から飴釉をかけているけれども、登り窯の中で還元がかって焼成されたのか、ぐい吞みがウンコ色をしているのだ・・・

しかも土から鉄分が出て斑点模様が出て、まるでリアルなウンコみたいに凹凸感が表現されており、土からじゃなくウンコから出来た焼き物に見えて、酒がまずくなった・・・

こんなぐい吞みで酒が呑めるか、と私は腹が立ってきた・・・

ぐい吞みだけでなく、実は私は7万円かけて、26点の食器を買っていた・・・

新品の食器を買おうとして、民藝の器で揃えた・・・

民藝とは、民衆的工藝品の中に美を見出し、普段使いの日用品の中に美がなければいけないと説く・・・

しかし本当に、美が身近にあっていいのだろうか・・・

家の中に、それも食器棚の中に収まっているだけならまだしも、テーブルの上に美があり、そこにメシが乗っているところを、想像してほしい・・・

美が、美術館の中に展示されているのなら安心できるけど、自分の家の中に美があって、美が普段使いの食器と化して傍にある、そんな場面をよーーーく考えてほしい・・・

ちょっと考えただけでも、緊張するし、気が重たくなるし、煩わしくなるのではないだろうか・・・

美しい器でメシを食える人ならいいが、私みたいに、ささいな事でも気になる人間になれば、美が気になって落ち着かなくなり、メシが喉に通らない・・・

あまりに食器が美しいと、食欲が失せるし、器が気になってメシが邪魔になってくる・・・

しかも、お好み焼きのソースかなんかで器が汚されているのを見ると、罪悪感すら覚えるから、自分を責めてしまってメシどころではなくなる・・・

民藝の器で平気でメシが食えるほど、美に鈍感になりたいけれど、そもそも美に反応しなければ、7万円分も食器を買わないから、難しい話だ・・・

民藝の器は、自分では使いこなせないな、と私は判断した・・・

メシが乗っていない状態の器を見るだけで、お腹いっぱいになるからだ・・・

もう満足や、器があればメシなんかいらん、と私は言いたい・・・

沖縄と九州大分の器は揃えたから、これで十分や・・・

器を見る、ただそれだけで幸せやわ・・・

使わなくてもいい、器があるだけで幸せやねん、と何度も言う・・・

私は、人生でどん底だけど、器があれば幸せです・・・

今がいちばん幸せ・・・